ヒトとして暮らすこと

いろいろな暮らし。いろいろな考え。農村生活と都市生活の二重生活を送りたがるわたしの記録。現在韓国ワーホリ中にて、あちらこちらの情報のお届けもします。

韓国の田舎における犬とは

わたしが韓国で居場所にした、江原道のとある田舎町。

結婚を考える相手と出会い、その人の家に住み込んだ。

 

そんなのは前置きで、家には犬がいる。

5月末に飼っていた大型犬2匹の子どもが6匹生まれた。

その2匹は家より大きな面積の大きな檻の中で自由に生きている。

から知らなかった。妊娠も出産も、、、。という言い訳を挟む。

 

ある朝、お兄さんがご飯をあげに檻の中に入ったら(ごはんも一回に数日分あげる方式)、犬の赤ちゃんがいた。

多分、生まれて1日か2日経っていた。1匹は死んでいた。

 

この家でこうやって犬が出産するのは4回目くらいだから、子犬が死んでしまうのも、その子犬たちの行き先を見つけるのも慣れている、とお兄さんは言った。

 

初めて子犬を見たわたしにはその子たちが可愛くてしかたなかった。

毎日檻に行っては、動くのをただ見て、お母さん犬が乳をあげるのを手伝って(邪魔していた可能性もある)、ダニを取ってあげて、ちょっとした成長に感動して、毎日幸せだった。

この5匹が大きくなってもこうやってかわいがって育てたいと思いつつも、それは現実味のない話だから、行き先が見つかるまで、と思ってた。

 

だけど少しずつ大きくなってきて、本格的にさてこの5匹をどうしよう、となったとき、犬が日本やソウルなどの都会の人が考える存在とまるで違うことを知った。

 

韓国の田舎において犬の役割は大きく2つある。

ご飯の残りを食べることと、家を守ること。

 

そして人によってはもうひとつ。

家畜、つまり、大きくなれば絞めて食べる動物。

 

韓国には犬の農場というか、養犬場がある。わたしの住む地域では幸い見ることはないが、場所によってはポシンタン(犬鍋)屋さんの看板も見られる。

 

お兄さんは元々ソウルの人で犬を好きな人だから、犬に対する考え方はわたしと似ている。ドックフードをあげるし、犬の肉は決して食べない。

けれど、これまで生まれた犬のうち、数匹は犬を食べる人の家に送ったと教えてくれた。

最初はお兄さんも知らずに送り、後に知っても、生まれた犬を送ることがあったという。仕方がないことだと言った。彼も苦しんだ過去があった。

 

犬を食べることは文化であり、我々がかわいいと言いながら豚や牛や鶏、その他多くの動物を食べることと何が違うのだろう。

 

と頭で理解しても、こんなにかわいくて、愛おしいこの子達を食べる人に送ることは、私の心が許せない。

 

でもさ、じゃあ、わたしがおいしいと食べる肉は、誰かにとってそんな存在ではなかったのかな。

 

だからって犬を叩いてから殺したらもっと肉がおいしくなる、と言って嘆いている犬を叩く人のところに送るの?

 

何度も泣いて、お兄さんと争って、犬をかわいがって、また泣いて。

どんなに考えても私の答えはまだ出ていない。

 

だから、どうにかして、この犬たちを飼えないか、あるいはかわいがって育ててくれる人の家に送れないか、それを考えることにした。

 

5匹のうち、2匹は無事に犬を食べない人のところへ行った。

地域の人にお兄さんが幾度か声をかけたけれど、今回は食べる人たちも含めて引き取ってくれるところが見つからない。

 

残りの3匹。

1匹はうちで飼うことができるとお兄さんは言う。

そしたら残り2匹。

 

韓国の田舎では普通とされる食料としての犬。

これを拒否はしないけれど、うちの犬と考えると話が違うんだよ。

どうしようもなく心が苦しめられる、犬の問題。

 

最後に、こんな話をしたのは私ですが、犬を食べるから、という理由から韓国人(特に田舎の韓国)対する不快感を持たないでほしい、とお願いをしておきます。動物を育てて、美味しく食べること、それはヒトとして当然の歴史で、文化です。

犬を食べることに不快感を覚えるなら、現在の養豚、養牛、養鶏のシステム化により我々がどのように育った「肉」を食べているのか、それを知ることから始めてください。

そして後に食べられるとしても、大事に育てている農家がいることを知ってください。

 

動物は私が食べる肉である。

それを知りつつも、かわいがってしまったが故に、この肉だけは食べたくない、食べられたくない、そんな理論を訴えてしまう自分をまだ甘いんだろうなと思う。

 

今日もわたしは肉を食べる。

動物を、魚を、野菜を、命をいただきます。

それ忘れないようにするしかできない。無力。