持っているというカテゴライズ
毎日、暇である。バイトをやめたら、ウーフーに出て農村をめぐる旅をしようと思っているのだけど、なかなかバイトはやめられなそうだし、私の好きなように生きるといっても多少の責任を無視することは出来ないのだなぁと思う。
今後の生活を考えたら、全くもって贅沢をすることは出来ない。だけども、ソウルにいる限り私はお金を使う生活から抜けられないので、都会で生きていくのは大変だぁと思っているところだ。田舎にいればお金を使わないから!と思っているけれど、ウーフーではなく普通に暮らそうとしたら、田舎にいたってお金の流失は避けられない。
では、どう生きていけばいいのだろうか。
ドネーションで相手の気持ちでお金を得ながら商売している(それを商売と呼ぶのかはさだかではないが)人たちもいる。
どんな仕組みになってるのかわからないが、無料や利益なしで提供している人たちもいる(こういう人たちは副業で結構稼いでたりはする)。
わたしが何かをしようとした時、株があるわけでもなきゃ、元々土地を持っているわけでもないので、お金を受け取らなければその事業を続けることは難しい。ついでに今の貯金は20万くらいで、この先韓国で定期的に稼ぐ予定はないので、東京に帰って仕事を始めるまでは減っていく一方だ。暮らしが危うい。
これが、持っている人と持たざる人の違いか…。と持っている人をついうらやんでしまうところだが、意外と私もお金以外は持っている人なんじゃないかと最近気が付いた。
東京に実家がある、韓国語が話せる、なぜか優しい人、頼れる人たちがそばに来てくれる(これが一番うれしい)、などなどなど
自分のことを持ってない人だとカテゴライズしてしまったとき、自分は本当に持っていない人になってしまう。しかし、自分が持っている人だときちんと気づいたとき、自分がある点では幸福だと気づく。その気づきがあったとき、私はもっと毎日の幸せを感じることができるようになった。
なぜ人は他人をうらやんでしまうのだろう。
他人の持つ何かを自分も持ちたいと思ってしまうのだろう。
他と比べることでしか自分の不幸も幸福も計れないのならば、それは未熟な人間ではないだろうか。自分の中にある幸せにきちんと気づけるのならば、たとえ子どもだろうと、大人だろうと、豊かな人間であるように思う。
まぁ、そんなことを言っているわたしはまだ比べることをやめられていない。他の人のものをうらやむ段階から抜け出して、自分の物差しを作っていこうと思います。
ビールと友達
耐えてるけど、まだ耐えられるけど、結構辛い。
ふとした瞬間に、私が悪いんだ、と思って心が苦しくなる。
そんな心を抱えたまま笑顔で働くことは、結構大変だったりする。自分が悪いの、あなたは悪くないからっていう体裁で相手と話をするのも結構心にくる。
そんな時に、公園と動物園に来た。まだ寒くて、緑は少ないけれど、少し花が咲き始めた3月終わりのソウル。泣いたせいで頭痛がしていた。頭痛と自分の責任を感じながら歩いた。
動物たちは狭い狭い檻の中でそこで生きていた。わたしは、どうして、こんな広い世界に出てきてしまったの?狭い世界の中にいたらこんな苦しさを感じなくてよかったのに。君たちがうらやましくもあるよ。なんて、思ったりした。
辛い時に、辛いと言えない性格だ。
だけど辛抱強いってわけでもない。
だから、苦しくなるとどんどん死に近付いていく気がするときもある。死に引き寄せられる。
そんなタイミングで、新しく友達になった子から、今日の夜ビール飲もうよ、と連絡がはいった。
その電話をしながら笑顔になって、話してる自分がいた。友達、それはとてもいいものだと思う。
まだ友達になりたての友達だろうと、自分がひとりでいたら死んじゃいそうな日に横にいてくれる人がいる、それはとてもあたたかい。それだけで、その友達にわたしは感謝して、こっそり愛を送るんだ。
広い世界に出たから感じる苦しさ、広い世界に出たから出会えた人たち、いいところだけ得る、なんてないのね。世の中は平等だ。
食欲とは
考えてみたら、毎日ひとりでご飯を食べる生活はしたことがなかった。
1日のうち、一回は誰かと食べていた気がする。
実家も、ファームも、朝、昼、夜、誰とも食事を共にしないまま1日が終わることはなかったから、今、ソウルに来て、そんな日が続くとわたしって食欲なくなるんだ、という発見があった。
わたしは食べることが好きな人間だと思っていたけど、実は誰かと食べるときに話すことが好きだったみたい。
食べてるとき、
これおいしい!お肉すき!っていう食べ物の話だけじゃなくて、
今日こんなことがあってね、
とか
今度どっかいこうよ、
とか
そういう会話がある。
テレビ見ながら食べてたって、芸能人の話になったり、なにかしらは話すでしょ?
だけどひとりで食べてると、心の中でだけで、これおいしいなぁだとか、このあとどこいこうかなぁとか、なんならなにも考えないでとりあえず食べてたりする。
食べなきゃ人間死んじゃうぞ、と言われますが、ひとりで食べ続けてたらわたしの心死んじゃうぞ?
という理由で最近は1日の食事をできるだけまとめて食べている。なんなら友達といるときに栄養摂取をしておいて、ひとりのときにあんま食べなくても平気なようにしておく。
しかし定期的にお腹は空くんだな。
ヒトもただの生き物だなやはり。
わたしってそうとうな寂しがりやなのかしら?
でも、そういうの平気って言う人も、意外と初めは今のわたしのように食べてたのかしら?
大人になるにつれて、できることが増えるけれど、別にひとりで食べられる大人になりたかないな、と思う日。
韓国とわたし
2017.9
江戸時代に国同士がせっせと頑張って作り上げた友好関係。
それをやめたおおよそ100年前。
今や命もかけず誰でも数時間で行ける国。
歴史は常に繰り返す。
わたしの生きる今は友好的であってほしい。
わたしはこれからも韓国が日常に存在してる予定だし、たぶん死ぬまでともだちだと思う。
何が好きなのとよく聞かれるけど、それはよくわかりません。
ともだちってそういうものだよね。
農的な暮らしを知ったとき
大学まで東京でしか暮らしたことのない私。
大学卒業後の進路を考えたとき、東京を出ようと決めた。
就職して、オフィスに勤めると思ったとき、なぜかわからないけどゾッとして、就活ができなかったから。
周りの先輩も、同級生も就活、就職をするのが当たり前と考えていることに、とても違和感を覚えていた。
就活なんてしない、と社会への反抗精神で始めた模索。
3年生の冬、WWOOFの存在を知り、すぐ登録。はじめてのWWOOFは、3月。まさに就活解禁という時に、都会にいたくなくて、田舎へ逃げることにしました。
はじめての農家生活は、山梨県のオーガニックファーム。後に自分が住むことになる場所。
その経験で得た感情が、今のわたしがある原点。
2017.03
この10日間、
にわとりのやかましい(たまに笑える)鳴き声によって朝目覚めたり、
野菜と米ばっか食べたり、
泥ついたり、
手が荒れまくったり、
あんまり好きじゃないようなことの積み重ねにあると思っていたけど、どうしても経験してみたかった生活を体験して思ったことは、
「暮らしている」という実感でした。
わたしたちに幸せをくれるものは生き物なんだ。
というようなことをムヒカさんが言ってたけど、
植物も動物も人間も含めたすべての生き物が私を幸せにするんだなぁと思いました。
見た目は悪いけどおいしい野菜。傷んでてもそこをとればおいしい野菜。どう食べてもおいしい野菜。
たまーに取れるこっこのたまご。
それらを世話する人間。
ときたまスーパー。
そうやってできたものを使って作った(楽しい人たちとの!)ごはん。
人間の出来ることって大したことなくて、他の生き物との支え合いで生きてるんだね、って。
小さな嫌いが合わさったはずなのに楽しい暮らしになってたね、って。